
ハイ! マナビトです。今回の参考書籍は大ベストセラー「嫌われる勇気」の続編! 国内合計307万部、世界合計700万部の「幸せになる勇気」。フロイト、ユングと並ぶ心理学三大巨匠の一人、アドラー。アドラー心理学を哲人から教わった青年はその後アドラー心理学を実践し、3年後哲人を再び訪ねるのですが、アドラー心理学は理想論であって実践的ではない! ペテンだとまくし立てます。そこで、哲人は言います。「多くの人々はアドラー心理学を誤解している」と。まだ、読んだことのない方、読みはしたけど忘れてしまった方へ向けて本ブログでは要点を絞ってさらに分かりやすい解説。それでは、いってみましょう!
前回のかんたん振り返り
前回のテーマは『問題行動の5段階』でした。
問題行動の5段階について、思い返せば当てはまること、ありませんか? 私は教育者ではないですが、指導する立場にはなったこともあり今もそれを求められることもあります。繰り返しになりますが、「相手の日常的に些細な言動に着目し「相手の関心事」に興味を持ち共感する。相手への尊敬の念を示す。」がとても重要でしたね。
詳しくは過去記事をご覧ください♪ 今回のテーマは『なぜ、ほめてはいけないのか?』です。早速、一緒に学んでいきましょう!
アドラー心理学 アドラーは「ほめて伸ばす」を否定している

なんですと!? ほめ育てという教育方針もあるくらい「ほめて伸ばす」は教育に浸透していると思っていましたが・・・ 私もほめられて伸びるタイプです! ほめて!!

アドラーはこのように考えています。「ほめることは”能力のある人が、能力のない人に下す評価”であり、その目的は”操作”である。」と。
ほめること、その目的は”操作”である。とアドラーは言います。果たして教育において操作は悪いことなのでしょうか?
【ほめるシーンの一例】 何かの課題を高いレベルで達成した生徒や部下がいたとします。指導的立場のあなたは、その成果を「よくやったね! すごいぞ。」と称賛します。確かに上から目線で”能力がある人が、能力のない人に評価を下して”います。その後、称賛と達成感を覚えた生徒や部下はますますやる気を出しました。

確かにアドラー心理学的には5つの問題行動の第1段階「称賛の要求」をするようになるかもしれません。しかし、”ほめられること”がきっかけで教育が目指す目的「自立」を促すことにもなるのではないでしょうか?

では、一緒に考えていきましょう。
なぜ、アドラーは「ほめてはいけない」という原則を追求するのか。一例のようにほめたら喜び、相手もやる気を出しているのに、どうしてほめてはいけないのか? ほめることにどんな危険があるのかを考えていきましょう。
アドラー心理学 ほめられることを目指した競争原理に支配される

いきなりですが、問題です。民主主義が確立されていない共同体で、独裁者の力によってルールが強制的に決められています。民主的ではないこの独裁者は必ずしも嫌われ者とは限りません。さて、なぜでしょうか?

え!? えーと、イケメンだったから? カリスマ性? 独裁だけれども良いこともあった?

どれも当たっているとも言えますし、しかしながら表面的な部分ですね。

表面的ではない部分が「ほめること≒操作すること」に関係している??
答えです。独裁者が嫌われず支持されたこと「信賞必罰」があるからです。その独裁者の人柄や信条を支持していたのではなく、ただ「ほめられること」や「罰せられないこと・叱られないこと」を目的に従っているだけなのです。

でも、そういうものではないでしょうか。世の中って、競争ですし。

そうですね。そうやって共同体は、褒賞を目指した競争原理に支配されていくのですよ。競争をするとどんなことが起こりますか?

学業でも、仕事でも、スポーツでも、ライバルと切磋琢磨してより良い成果が上がるのではないでしょうか。悪いこととは言えないのではないでしょうか?

競争原理の中に身を置き他者と競争すると、競争相手とは「敵」と認識するのです。

ま、敵でもあると言えますし、切磋琢磨する仲間とも言えるじゃないですか。ライバルの存在って成長には重要ではないですか?
競争原理の中に身を置くと、「他者は全て敵!」「周囲の人々は隙あらばわたしを陥れようとする油断をしてはならない相手」というライフスタイルを身につけてしまいます。また、ライバルと呼べる友は非常に大事です。しかしながら、そのライバルと競争する必要は一つもなく、競争もしてはいけないのです。

ライバルだけど、競争しない? どういうこと!?
アドラー心理学 個ではなく共同体を見る

競争すると、友もやはり敵として捉えてしまい対人関係に悪影響を及ぼします。

ますますよく分からないのですが、どういうことぉ〜!?
【競争が生み出すもの】
人生は長くマラソンのようなものと仮定します。あなたはライバルと一緒に「この人生を完走しよう」とお互いの頑張りを励みに走ります。横を走るライバル、「アイツが頑張っているからわたしも頑張れる!」と何とも心強いものでしょう。
しかし、ここで「完走」ではなく「ライバルに勝ってやろう!」と目的が変わった場合、どうなるか? 勝利するために駆け引きをします。いつライバルを出し抜くか機会を伺います。はたまた給水場で水を取りにくくするなどちょっとした妨害をするかもしれません。そうして、あなた(もしくはライバル)は相手を出し抜き勝つことができました。
闘いが終わった後も相手を祝福することはできず、負けたものは嫉妬や劣等感に苦しみます。そしてまた、次の競争に備えなければなりません。

そんな事態にならないように組織は、賞罰も競争もない、民主主義的な共同体を目指さなければなりません。

民主主義的な共同体とはどのようなものなのでしょうか?

競争原理ではない「協力原理」に基づいて運営される共同体のことです。
協力原理に基づくと「人々はわたしの仲間である」というライフスタイルを身につけることができます。
なぜ、「完走しよう」から「ライバルに勝ってやろう」と目的が変わったのか
アドラー心理学では、”個人”が目的を変えたのではなく、その”共同体”に蔓延している競争原理に問題があったと考えます。そして個人に着目するのではなく、共同体そのものを治療していくのです。例えば、問題行動を起こした個人ではなくその組織全体にメスを入れていくというイメージです。

治療って具体的にどうするのですか?
ほめたり叱ったりすることをやめて、競争を一つ一つ摘んでいき競争原理を無くしていくのです。
アドラー心理学は民主主義の心理学

アドラー心理学は民主主義の心理学と言われています。

どういうことでしょう?
【縦と横の対人関係】 縦の関係|競争原理。強さや順位を競い合い、勝者と敗者が生まれそこでの上下関係が生まれる。 横の関係|協力原理。誰とも競争することもなく、勝ち負けも生まれない。他者との間に知識や経験、能力の違い、成績・成果も違うが、それらは関係なく全ての人間は対等であり、他者と協力する。
アドラー心理学の提唱する「横の関係」を築くには、ほめたり叱ったりされることを目的とする競争原理ではなく、他者と協力する協力原理が不可欠なのです。だからこそ、競争原理を生む「ほめてはいけない」という原則を追求するのです。
アドラー心理学 まとめ
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。競争原理を生むからほめてはいけないという考え方、最初は「理想論の甘っちょろい考え方、それでは競争社会に生き残れない」とすら私は思いました。しかし、スポーツではなく人生や対人関係における勝ち負けなんて必要あるのか? それこそ、相手の価値観に乗っかっているだけではないか? と読みながら考えました。一昔前に人生の勝ち組や負け組という言い方がメディアに登場した時は「人生とは勝ちとか負けとかそういうものなのか?」という違和感を感じたことを思い出しました。
アドラー心理学は今までの考え方を覆す強力なパンチ力のある考え方だな〜と感じます。何が正しいというわけではなく、さまざまな考え方に触れることで自分なりの自分に合った考え方を身につけられればなと思います。そのためにもこれからも一緒に学んで行動していきましょう!
それでは、また!
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